著書紹介「えひめ在日一世たちのシンセタリヨン」

 本書は、2005年、日本の敗戦・朝鮮の解放60年にあたる年に執筆されたものである。

 日本の敗戦直前に強制連行された朝鮮の青年・少女たちも2022年現在、100歳を超えている。

 本書では、名田隆司先生が2005年時点で存命する在日一世の朝鮮人の方々に対して聞き取りを実施する様子が記されている。

 2005年の話とはいえ、既に80歳を超える方々への聞き取りである。

 そのため、これが最後の聞き取りになるかもしれないという思いで実施されたことと思う。

 また、在日朝鮮人の方々にとっては、高齢で闘病を続ける方も多い中、昔の話などしてもどうにもならないと考えていた方もいたと思う。

 しかし、先生の朝鮮に対する姿勢は、在日朝鮮人の方々の心を動かし、本書では7名の方に聞き取りを実施することができた。

 なかには、過去のことを思い出し、涙を流す人もいたという。

 先生は、これら聞き取りの難しさについて、「たかが聞き取り作業というなかれ。それを語り出す彼等の複雑な心中との葛藤こそが、個人史を超えた在日朝鮮人史なのだから。聞き取る側でその言葉にならない呻吟を聞き分け、聞き取るだけの努力と研究を重ねておく必要があるのは当然のことだ」と述べている。

 実をいうと、私は、本書を読む中で、この言葉が一番心に響いた。

 歴史を知るためには、その時代を生きた方々に直接聞くのが一番早いが、そのためには、聞き取りされる側の気持ちをきちんと推し量る必要がある。

 それをしなければ、独りよがりの聞き取りになってしまい、決して朝鮮の方々のためにはならない。

 今後、朝鮮問題を考える上で、この言葉を心に留めて大切にしたい。

 また、本書で記されている7人の在日朝鮮人の方々の言葉をぜひ、日本・朝鮮問わず多くの方に知ってもらいたいと思う。

(文:愛媛現代朝鮮問題研究所)

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横網町公園~関東大震災朝鮮人犠牲者~

(写真:横網町公園 正門前)

 1923年9月に発生した関東大震災の混乱の中で誤った策動と流言飛語のため6000余名にのぼる朝鮮人が尊い生命を奪われた。

 「東京都慰霊堂」や「復興記念館」で知られる横網町公園の一角に、関東大震災後、不当に殺傷された朝鮮人を追悼する石碑を見つけた。

 前代未聞の大震災発生時、多くの人たちが冷静な判断力を失い、不安に駆られた結果、様々な流言が生み出され無秩序に拡散した。

 その中で特に流言の被害にあったのは、朝鮮人であった。

 「鮮人襲来」という噂を受けて、政府は緊急勅令による戒厳令を宣告した。これによって、警視庁が流言を発した者に処罰を下すとの通知を出したり、市民による自警団が組織され、多くの朝鮮人や朝鮮人と間違えられた中国人や日本人が暴行・殺傷された。

 この関東大震災で殺された朝鮮人の数について、司法省の発表では233人であるが、在日本関東地方罹災朝鮮同胞慰問班朝鮮人虐殺数最終調査報告によると6,661にのぼるとのことである。

 どうしてこれほどまでに数字が乖離しているのか。それは、当時の日本政府が朝鮮人虐殺の事実を隠すために証拠隠滅や政治的妨害を行ったことが考えられる。

 また、司法省の調査では、民間人の朝鮮人虐殺のみを挙げており、軍隊や警察の朝鮮人虐殺は除外しているとのこと。

 当時の殺された朝鮮人の数は定かではないものの、謂れのない噂話で多くの朝鮮人が傷ついたことは、まぎれもない事実である。しかし、こうした事実は、時間の経過とともに忘れ去られていく。

 四国の中にも朝鮮人にまつわる地が多くあるが、そうした地に赴いても朝鮮人がいたことを示すものは数少ない。

 悲惨な歴史がなかったことにならないようにこの研究所でも更に発信をしていきたいと再認識できた。

(文:愛媛現代朝鮮問題研究所)

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【朝鮮人動員の地を巡る。】「松山市吉田浜航空基地 掩体壕」

(写真:松山市指定有形文化財 「掩体壕」)

 掩体壕とは軍用機を上空の敵機から守るために造られた格納庫で、太平洋戦争末期には全国の軍用飛行場に造られていた施設である。

 そんな掩体壕が愛媛県松山市に点在していると「朝鮮人強制連行調査の記録―四国編―」に記載されていたため、実際に現地に赴いた。

 戦前、松山海軍航空隊と松山海軍航空基地が設置され航空基地の飛行場付帯施設として南吉田・垣生両地区に掩体壕が63基作られるも、戦後、そのほとんどは消滅し、南吉田区には現在3基のみ現存している。

 そして、いずれの掩体壕も飛行場につながる隧道(トンネル)があり、中には水路として利用されているものもあるようだ。

 朝鮮人強制連行真相調査団によると、戦前、松山市高岡辺りで隧道工事に従事していた高乗紹(コウピョンソ)氏は、「隧道工事はほとんど朝鮮人がおこなった」と証言し、また、この地域のおばあさんも「トンネルはみんな半島人がやっていた」と証言したそうだ。

 しかし、現地の掩体壕に関する紹介の中に「朝鮮人」という言葉は出てこず、ただ戦争の悲惨さや命や平和の尊さを伝える資料として重要であるとだけ書かれている。

 当時、危険な仕事と知りながらも命がけで隧道工事にあたっていた朝鮮人がいたことを、少しでも多くの人に知ってもらいたい。

 犠牲になったのは隧道工事に携わっていた朝鮮人だけではない。これら人々の家族、なかには生まれたばかりの赤ちゃんもいたことと思う。悲惨な戦争を伝承すること自体は間違っていない。ただ、その悲惨な戦争の裏で朝鮮人もいたことを我々日本人はもっと知るべきではないだろうか。

(文:愛媛現代朝鮮問題研究所)

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映画紹介「パッチギ!」

 最近、レンタルビデオ屋さんで旧作の映画を探していた時、「パッチギ!」という題名と、表紙で不良高校生が拳を挙げているDVDに目がとまった。

 私は、不良映画はあまり見ないのだが、「パッチギ!」という題名が気になり、紹介文を読んでみた。すると、在日朝鮮人と日本人の高校生を取り上げた愛と友情のドラマであることが書かれていた。

 この映画は、昭和の京都を舞台に在日朝鮮人と日本人の喧嘩や恋愛、友情を描いた映画である。

 何気なしに見た映画であったが、当時の在日朝鮮人に対する差別、そして、近くて遠い二つの国の男女の恋愛模様を映画いている点で、ほかの不良映画とは一線を画している名作であるといえる。

 私がこの映画で一番心に残っているシーンは、朝鮮学校に通うキョンジャに主人公である高校2年生の康介が告白したとき、キョンジャの「もし、私たちがこの先ずっと付き合い続けて結婚するようなことになったらあなたは朝鮮人になれる?」という言葉に、何も言い返せなかったシーンである。

 日本と朝鮮、二つの国の間に深い溝があることを知った康介の表情は、かなり印象に残っている。

 実際に、朝鮮人と日本人が恋愛をするとしても、この映画のように色々な試練があったと思う。もしかしたら映画では描けないような、もっとたくさんの苦労があったかもしれない。そう思いながらこの映画を見てみると、まだまだ自分が知らない世界があると実感した。また、その一方で、在日朝鮮人と日本人の恋愛を経験した人に経験談を聞いてみたいという気持ちになった。

 10年以上前の映画ではあるが、現在でも活躍する俳優の演技に目が釘付けになることは間違いない。私もまた少し時間を空けて見直したいと思う。

 お時間があれば、このブログを見てくださっている皆さんも是非「パッチギ!」を見てみてください。

【愛媛現代朝鮮問題研究所】

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著書紹介【海を抱いて月に眠る】

 当研究所のブログ活動として名田先生の著作をいくつか紹介させていただいている中で、ある日、名田先生の奥様から一冊の小説をオススメされた。

 在日朝鮮人は、在日朝鮮人というだけでこれまでどれほど不利益を被ってきたのか。そして、日本人としてこの問題とどう向き合わなければならないのか。そんなことを考えさせられた作品だと紹介していただいた。

 私は、その小説のことが気になり急いで近くの図書館に向かった。

 「海を抱いて月に眠る」。本書は、著者であり韓国にルーツを持つ深沢潮さんの父をモチーフに物語である。在日一世だった父は、頑固で無口。そのうえ、日本で生活する娘には韓国式の生活を強要するような一面もあった。

 そんな父が亡くなったとき、葬儀に訪れた一人の女性、そして仲間と思しき男性。娘は、疎まれながら亡くなっていったはずの父の訪問者が目の前で泣き崩れるのを不思議に思った。

 葬儀のあと、そんな父の遺品整理をしていると数冊のノートが見つかる。そこには、家族も知らなかった父の壮絶な人生が記されていた。頑固で無口なゆえに家族に素直な思いを伝えられなかった父。そして、その思いを知る前に亡くなってしまった妻。

 在日朝鮮人として本名すら名乗ることができなかった父が亡くなるその日まで家族のことを思い、戦っていたこと。

時代の流れに翻弄された一人の在日朝鮮人の人生を感じることができる本書を読んで、私も名田先生の奥様と同様に、日本人としてどう向き合わなければならないのか、また、在日朝鮮人が日本で生活する大変さ・苦しさをもっと理解しなければならないと感じた。

(文:愛媛現代朝鮮問題研究所)

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【書評】「たかし言質論第2集 朝鮮問題シンドローム」

本書は、月刊「マスコミ市民」と研究所のブログに掲載していた名田先生の記事をまとめたものである。本書の内、月刊「マスコミ市民」に掲載されている記事は前回(今年6月)に紹介させていただいたが、今回は過去に研究所のブログに掲載されていた記事について一部抜粋して紹介したいと思う。

 日韓・日朝関係を考えるうえで、避けては通れない強制連行問題。この問題について、名田先生の鋭い指摘を目の当たりにし、単純に日韓・日朝間が仲良くなるだけでは解決できないことを改めて認識することができた。

朝鮮人連行を考える(2013年3月18日 記)

朝鮮人強制連行とは、基本的に日本のどの歴史書においても日中戦争が全面戦に突入して以降の労働者や軍要員の不足を補うために、国策として実施した時期のことを中心に記述している。

 1939年、日本政府が「朝鮮労務者内地移送二関する件」を出し、同年、朝鮮総督府が「朝鮮人労働者募集ならびに渡航取扱要綱」を出すことで日本国家自らが朝鮮人労働者を積極的に移入する問題に関与していった。

 そこで、日本国家が朝鮮人強制連行に関わる時期が3段階に分かれていたことが説明されている。

1942年1月まで続く第一段階での「自由募集」の時期、1942年2月から1944年8月まで続く第二段階での「官斡旋」の時期、1944年9月からの第三段階での「徴用方式」の時期である。1939年以降は、日本国家の国策として朝鮮人労働者を強制連行して戦争遂行補充要員として送り込んでいたのだ。

これら3段階の内、「自由募集」の時期があるが、これはあくまで日本側の表向きの制度(法的区分・表現)であって、朝鮮人からすれば公権力を利用した命令であり強制であったから徴用と何ら変わるところはなかった。

しかし、安倍晋三(元)首相と彼を支持する右派知識人たちは、朝鮮人労働者たちや軍慰安婦たちには、国家(軍隊)の関与も強制性もなかったと主張している。

強制連行された朝鮮人労働者や軍慰安婦たちと、軍隊や企業との間で直接的な「契約書」を交わしていなかったことが、まるで近代契約法的な感覚で、国家の関与と強制性を否定する論拠にしている。

二国間条約が国家間で結ばれた信頼関係、対等関係での約束事の表現であることは、近現代国際法でのことである。植民地時代のそれは、対等な関係や信頼関係などではなく、一方の側による強要した内容を相手に守らせるためのものでしかない。

 朝鮮人として生きるために、朝鮮・故郷を離れざるを得なくなってしまった最大の理由こそ、日本の植民地支配とその余りにも過酷な政策によってであったから、彼らが日本に来た理由は、決して「自由募集」「自由渡航」「自由応募」などではなかった。

 愛媛県新居浜市の住友別子銅山に連行された朝鮮人のように、未だに遺骨も見つからず、名前も分からず、墓標すらも建てられない犠牲者は、一体どれほどいるのだろうか。

 このような強制連行者たちの無念を、忘れての日韓交流や日朝交流を言う事は、歴史を冒涜している。

 死してなお、彼らには名前も忘れられ、または日本名のままであったり、遺骨の引取り手もなく、出身故郷さえも分からずに否、遺骨さえもない朝鮮人たちの恨みを、日本列島はまだ晴らしていないのだ。

(文:愛媛現代朝鮮問題研究所)

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映画紹介「タクシー運転手~約束は海を越えて~」

 歴史を学ぶには、書物を読んだり、歴史を知る人に話を聞くなど色々と方法はあるが、このほかにも史実をもとにした映画を見ることでも歴史に関する知見を広めることは可能である。
 そこで今回は、韓国で大ヒットした映画「タクシー運転手~約束は海を越えて~」を紹介したいと思う。

 「タクシー運転手~約束は海を越えて~」は、1980年5月、韓国で起きた「光州事件(※)」の最中、戒厳令下の言論統制をかいくぐり唯一、光州を取材したドイツ人記者ユルゲン・ヒンツピーターとそのドイツ人記者をタクシーに乗せ、光州の中心部に入っていった平凡なタクシー運転手キム・サボクをモチーフにした映画である。

 ソウル市に住む平凡なタクシー運転手キム・マンソプ(役:ソン・ガンホ)は、ある日、日本から光州の取材にやってきたドイツ人記者ピーター(役:トーマス・クレッチマン)の「通行禁止までに光州に行ったら大金を支払う」という言葉につられ、ピーターと共に光州を目指すことになる。

 しかし、言論統制が行われている光州の現状をソウルで生活していたタクシー運転手マンソプは知らない。危険な目に遭いながら光州を目指す中で一度はピーターを見捨ててソウルに戻ろうとする。
 それでも正義感の強いマンソプは、仲間のタクシー運転手たちと力を合わせピーターの取材活動に協力するのであった。

 こうした二人とその仲間たちの決死の努力の結果、ピーターが取材した映像が世界中に報道されることになった。もし、二人がいなければ光州での軍人と市民の衝突が闇に葬られていたかもしれない。

 韓国現代史上、最大の悲劇ともいわれる「光州事件」。多くの市民が亡くなり直視しずらい歴史であるかもしれないが、この映画をきっかけに、光州事件について知る人が増えていけばと思う。

(※)
 「光州事件」とは、1980年5月、韓国全羅南道の道都であった光州市で大規模な反政府蜂起が起こり、軍隊の武力鎮圧により多数の死傷者を出した事件である。
 光州市のデモでは、非常戒厳令の解除を求める学生の5月18日の街頭デモに始まり、警官隊、軍隊との衝突が繰り返される中で一般市民を巻き込んだ騒乱に発展し、5月21日には20万人の群衆が市内の各公共機関を占拠。
 これに対し、戒厳令司令部は5月27日、約2万5000人の実戦部隊を突入させ市内を制圧した。
 「光州事件」の被害者は公式発表されているだけでも死者191人、重軽傷者852人とされている。

(文:愛媛現代朝鮮問題研究所)

 

 

 

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朝鮮人動員の地を巡る。「詫間町香田海軍航空基地建設場跡」

(写真:史跡 詫間海軍航空隊跡)

 今年5月に研究所で紹介した朝鮮人動員の地「観音寺市海軍飛行場」に引き続き、今回は、太平洋戦争中に朝鮮人らによって掘られ、軍が防空壕兼倉庫として使用していたとされる隧道(トンネル)をはじめとする「詫間町香田海軍航空基地建設場跡」について紹介したいと思う。

 今回も「朝鮮人強制連行調査の記録-四国編-」を参考に現地に赴き、本書の記載内容とともに当時の様子を伝えることができればと思う。

(写真:詫間海軍航空隊跡 神風特攻隊出撃の地)

 1943年、現在の香川県三豊市詫間町香田に、軍の水上機実機練習を目的として航空基地が建設された。そして、この基地建設に伴い、多くの住民が強制移転させられたそうだ。
 この基地は、はじめこそ海軍航空隊の訓練場として使用されていたものの、太平洋戦争の戦況が悪化すると沖縄戦に備え、水上偵察機による神風特別攻撃隊が編成され、多くの若い命が散っていった。

 こうした歴史の陰で、多くの朝鮮人が基地建設のため過酷な労働を強いられてきたことを知るものは少ない。                     

 当時、基地周辺には、9カ所の隧道(トンネル)が建設されており、燃料や爆弾が収納され、指揮所や無線通信施設としても利用されてきた。

 これら建設には、かなりの朝鮮人が動員されたが、その正確な人数は未だに明かになっていない。
 しかし、当時、女子工員として建設作業に携わった老婦人は、「朝鮮人用の建物が2つ作られ、150人くらいいたようだ」という。

 日本人の男性は兵隊に行っていたため、女子工員の多くがトロッコを押す仕事に従事していた。このほか、発破を仕掛ける作業(爆薬を仕掛けて岩や建物などを爆破すること)など危険な作業は朝鮮人が行っていたという。

 この基地周辺には、朝鮮人労働者が集団生活をし、防空壕堀に携わっていたとされるが、これら朝鮮人が強制連行されてきた人がどうかについて詳しいことを知っている人はいない。
 防空壕を視察した調査団によると、「この工事が当時としては大規模な工事であり、また、極めて困難であったことは一目で実感できるものであった」としている。

 現在、防空壕は立ち入りできないよう封鎖されており、周辺の石碑などにも朝鮮人労働者が建設に従事していたという記録は見当たらない。
 この地は、神風特別攻撃隊出陣の地だと知られている一方で、朝鮮人労働者の存在があったことについて知るものは少ない。

 「朝鮮人強制連行調査の記録-四国編-」が発行された1992年ですら風化しつつあった朝鮮人連行の歴史。
 戦後76年経った今、こうした歴史はますます忘れ去られているように感じる。そうならないためにも、後世に真実を伝えていくことが研究所の使命であり義務であると思う。

(文:愛媛現代朝鮮問題研究所)

 

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人民大衆第一主義〜コロナ禍で見えてきたもの〜

新型コロナウイルスが流行し始めて、はや1年と半年が過ぎた。その間、世界中で各種感染対策、経済対策が打ち出されていたが、それらが真に国民のためのものであったかという点については、必ずしもそうではない。

日本を例に挙げてみると、国民に対するマスク配布に始まり、度重なる緊急事態宣言による飲食店等に対する営業時間短縮要請、補助金支給などが行われたが、いずれも感染抑制、経済支援という点において、決定打に欠ける政策であったといえる。

そして、コロナ禍で国民に自粛を要請しておきながらも、政治家は会食を行い、補助金による支援を始めたかと思えば、官僚による不正受給が発覚する。

緊急時であるがゆえに、政府の手腕が問われる絶好のチャンスであったが、結果としては後手後手で国民の生活に則していない対応を行うに至った。

こうした日本政府の現状を踏まえて、なにが1番の問題点なのかを考えた時、当然のことではあるが、国民のための政治がなされていないことだと感じた。

そこで今回は、朝鮮で実行されている理念「人民大衆第一主義」を参考にして政治のあり方について考えたいと思う。

「人民大衆第一主義」とは、「すべてを人民の為に、すべてを人民大衆の為に依拠する」という朝鮮における政治の基本理念である。そして、朝鮮では、この理念を実現する為に「以民為天」「一心団結」「自力更生」という3つのスローガンを掲げている。

まず、「以民為天」とは、文字通り、「民を以って天と為す」ということである。これは、政治を行う指導者や党が人民を「天」と為し、政治を行う者が積極的にその人民の中に入ることで人民の願いや悩みを理解し、その上で人民に尽くすということを意味する。

つまり、政治を行う者は、国民(人民)を第一に考えて行動することが重要であり、また、そうすることで様々な困難に打ち勝てるという考えである。

次に、「一心団結」であるが、これは、指導者・党・人民が心を1つにするというものである。上記の「以民為天」では、人民を天と為すように、人民も指導者や党を信頼することが重要であるということである。

「一心団結」と言葉だけで聞くと、少しイメージしづらいかもしれないが、そういった方には、是非、朝鮮労働党第8回大会の慶祝大公演のビデオをみていただきたいと思う。

最後に、「自力更生」である。現在、朝鮮では、米国などの資本主義国から各種制裁による圧力を受けており、その上さらに、自然災害や新型コロナウイルスの影響で厳しい状況に置かれている。そんな中でも、自主の道を打ち立てることで資本主義国に従属せず、これら困難に立ち向かい、力強く前進することを表す理念である。

そして、「自力更生」は、社会主義的計画経済を実現する上でも重要な理念である。社会主義を実現するためには、他国の影響を受けないことが前提となるが、そのためには経済的・思想的に自立する必要がある。そうした意味で、「自力更生」という理念は朝鮮の根本になる理念であると言える。

これらの理念を実現してこそ、人民大衆を第一とする政治が可能となる。

このように本来であれば、政治家は国民のことを第一に考えることが当然の務めである。しかし、ニュースや新聞等の報道では、私利私欲に囚われた者による不正や改竄に関する事件をよく目にする。これは自身の上に立つ者に忖度する事ばかりに意識が行くことが原因であり、真に国民のことを考えているという状況ではない。

朝鮮では、こうした考えを善しとせず、なによりもまず国民のことを考える姿勢を重視している。

初めにも述べたが、コロナ禍において政治の役割が試される場面が多々あったと思う。しかし国民の期待には応えることはできなかった。

そんな時代だからこそ何が問題点で何が必要なのものか見えてきたものがあるのではないだろうか。

(文:愛媛現代朝鮮問題研究所)

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【書評】「たかし言質論第2集 朝鮮問題シンドローム」

本書は、名田先生が膵臓癌の手術を受けた年に執筆したものである。手術では膵臓の摘出のほか、胃や肝臓などの切除も行われており、体力・気力ともに疲弊している様子が窺われる。

しかし、先生は、このような困難な状況にあっても批判精神を絶やさず、体に鞭を打つように本書を完成させた。

本書は、先生が月刊「マスコミ市民」と当研究所のブログに掲載していた記事で構成されている。

この中には、2000年以前のものも含まれるが、現代の朝鮮問題を考える上でも基礎となるものだと思う。今回は、これら記事のうち「マスコミ市民」に掲載されていたものを抜粋し紹介したい。

「拉致問題」、歴史をねつ造するな(「マスコミ市民」987月掲載)

これは、先生が1990年代の朝鮮を取り巻く国際情勢を執筆するため、朝鮮での取材を終え、3週間ぶりに日本に帰ってきた時の話である。

帰国当時、日本(新潟)では、「『拉致問題疑惑』北朝鮮回答。不明者十人を捜し出せず-正常化交渉の再開困難に」と題する地方紙が販売されていた。記事では「疑惑」としているが、その前提は朝鮮が犯人である説を強く滲ませたものであった。

そもそも「拉致疑惑」とは、南朝鮮・国家安全企画部の管理下にいた朝鮮からの亡命工作員の証言のみを根拠としたものであった。しかし、マスコミ各社は、20年以上も前の出来事について根拠が曖昧なまま「北朝鮮拉致」を主張していた。

こうしたマスコミ各社や日本政府の姿勢の為、新たな被害者が出たとされている。

それは「行方不明者」の家族たちのことである。警察の捜査で生死が不明であった者たちの家族にとって「拉致疑惑」という情報は、真偽を確かめる余裕もないまま受け入れられたことであろう。

日本政府の朝鮮敵視政策によって、「行方不明者」を思う家族たちの気持ちも利用されている事実を我々は知らなければならない。

「ナゾの日本人」にされた、私(「マスコミ市民」033月号掲載)

2002年、日朝首脳会談が実現した。これを契機に「拉致疑惑」が事実となり朝鮮の体制を否定する方向へと動いていった。

そんな中、先生の元に民放テレビ局から取材の依頼があった。

2003年、朝鮮中央テレビで、金正日総書記の誕生日を祝賀する人々の表情を伝えるニュース番組に先生が映ったため、その時のことについて聞きたいと言うことであった。

家族からは、身に危険が及ぶかもしれないからと若干の抵抗を受けたものの、会談以降、身を縮めて暮らさざるをえなくなった在日朝鮮人に少しの勇気を与えたい、日朝国交正常化を進めることの必要性と正しさを理解してもらいたいという思いで取材に応じた。

ここでは、その取材の際の先生の言葉について紹介したいと思う。

拉致問題に関連した質問に対して、先生は「私は、確かに拉致された方々、その家族の怒りと悲しみの気持ちは十分すぎるほど理解しています。ですから戦前、日本が朝鮮人を強制連行や従軍慰安婦のかたちで拉致した人々とその家族の怒りと悲しみの気持ちを、いまこそ共有して、速やかに解決することはできないでしょうか。また、拉致の問題に関して言えば、北朝鮮は国家として認め、謝罪していますが、日本はどうなのでしょうか。こうしたことはマスコミ関係者は冷静に考えてみる時期にきているのではないでしょうか」と答えた。

拉致された日本人がいるのと同様に、朝鮮人の中にも日本に強制的に連れてこられた人がいた。

歴史問題とは、双方が事実を認め謝罪をするところから始めなければならない。

しかし、悲しいことにこうした歴史があったことすら知らない人も多い。

そんな時代だからこそ、誰よりも朝鮮人のことを想い、日朝友好を志した先生の意思を絶やしてはいけないと考える。

(文:愛媛現代朝鮮問題研究所)

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