今年5月に研究所で紹介した朝鮮人動員の地「観音寺市海軍飛行場」に引き続き、今回は、太平洋戦争中に朝鮮人らによって掘られ、軍が防空壕兼倉庫として使用していたとされる隧道(トンネル)をはじめとする「詫間町香田海軍航空基地建設場跡」について紹介したいと思う。
今回も「朝鮮人強制連行調査の記録-四国編-」を参考に現地に赴き、本書の記載内容とともに当時の様子を伝えることができればと思う。
1943年、現在の香川県三豊市詫間町香田に、軍の水上機実機練習を目的として航空基地が建設された。そして、この基地建設に伴い、多くの住民が強制移転させられたそうだ。
この基地は、はじめこそ海軍航空隊の訓練場として使用されていたものの、太平洋戦争の戦況が悪化すると沖縄戦に備え、水上偵察機による神風特別攻撃隊が編成され、多くの若い命が散っていった。
こうした歴史の陰で、多くの朝鮮人が基地建設のため過酷な労働を強いられてきたことを知るものは少ない。
当時、基地周辺には、9カ所の隧道(トンネル)が建設されており、燃料や爆弾が収納され、指揮所や無線通信施設としても利用されてきた。
これら建設には、かなりの朝鮮人が動員されたが、その正確な人数は未だに明かになっていない。
しかし、当時、女子工員として建設作業に携わった老婦人は、「朝鮮人用の建物が2つ作られ、150人くらいいたようだ」という。
日本人の男性は兵隊に行っていたため、女子工員の多くがトロッコを押す仕事に従事していた。このほか、発破を仕掛ける作業(爆薬を仕掛けて岩や建物などを爆破すること)など危険な作業は朝鮮人が行っていたという。
この基地周辺には、朝鮮人労働者が集団生活をし、防空壕堀に携わっていたとされるが、これら朝鮮人が強制連行されてきた人がどうかについて詳しいことを知っている人はいない。
防空壕を視察した調査団によると、「この工事が当時としては大規模な工事であり、また、極めて困難であったことは一目で実感できるものであった」としている。
現在、防空壕は立ち入りできないよう封鎖されており、周辺の石碑などにも朝鮮人労働者が建設に従事していたという記録は見当たらない。
この地は、神風特別攻撃隊出陣の地だと知られている一方で、朝鮮人労働者の存在があったことについて知るものは少ない。
「朝鮮人強制連行調査の記録-四国編-」が発行された1992年ですら風化しつつあった朝鮮人連行の歴史。
戦後76年経った今、こうした歴史はますます忘れ去られているように感じる。そうならないためにも、後世に真実を伝えていくことが研究所の使命であり義務であると思う。
(文:愛媛現代朝鮮問題研究所)